「今夜ね。それから永遠にあなたのものよ」
〜第1幕&第2幕〜
名前 ネッダ Name Nedda
出演作 道化師 作曲者 レオンカヴァッロ
役柄 旅芝居一座の座長の妻 性別 声域 ソプラノ

 この一言が彼女の死因だったと言っていい。
 あのタイミングでこの一言を口にしさえしなければ、もう少し長生きできたはずだけど、じゃあ、そうやって生き延びたとして、幸福一杯の人生が送れたかというと、そんなこともない。うんざりする生活から逃げ出して、束の間の幸福を手に入れて、すぐにそれが錯覚だったことに気付くけれど、気付いた頃には次のうんざりする生活に巻き込まれている。「こんなはずじゃなかった」と繰り返しながら年老いていく。悪いけど、彼女を見ていて真っ先に思いつくのはそんな人生だ。
 悪人ではなく、善人でもない。普通の人、巡り合わせが悪い、普通の人だ。
 貧しさの中に生まれ、子供の頃に親と別れた。旅芸人の一座に拾われ、座長に可愛がられて育ち、一座の花形女優となった。年の離れた座長の妻におさまり、食うに困ることはなくなった。でも、いくら愛されても夫を愛することはできないし、旅から旅の貧しい生活にも疲れた。嫉妬深い夫の愛は束縛に近く、息苦しい。
 そんな時、興行で訪れたある村で、若い男と恋に落ちる。身の丈を知っていて、諦めることも知っている女性だから、最初から逃げようと思っていたわけではない。でも、掻き口説かれるうちに、その気になってくる。とうとう、駆け落ちを承諾し、冒頭の台詞をささやく。
 しかし、それをもっともまずい人間が聞いていた。夫のカニオだ。
 そう仕向けたのは、座員の道化師トニオ。彼はネッダに横恋慕していたが、彼女にこっぴどくはねつけられた。それを恨んだ彼は、逢引の現場をトニオに押さえさせて、壊してやろうとしたのだ。
 案の定、カニオは逆上し、ネッダに情人の名を白状するよう、詰め寄る。ネッダは頑として口を割らない。よもや刃傷沙汰、というその時、別の座員が開幕の時間が迫っていることを告げる。
 危険な火種を抱えていても、舞台は容赦なく始まる。演目は、よりによってパリアッチョの寝取られ物語。浮気なコロンビーナが亭主の留守中に恋人のアレッキーノを家に引き込んでよろしくやるが、その最中に亭主が帰宅して大慌てする、という、ありがちな話だ。しかし、この状況でその芝居はあまりにも危険すぎる。
 ネッダがコロンビーナを演じ、カニオはパリアッチョ、コロンビーナに好意を抱きながら冷たくあしらわれる従僕にはトニオが配される。
 芝居と現実の状況が重なる。重なりすぎて、次第にカニオは、境界を見失う。パリアッチョとして、観客を笑わせなければならない。カニオとして、妻を問い詰め、どんな手段を使ってでも情人の名前を聞き出さなければならない。自分の存在が根底から傷つけられているのだ。どうにかしなければ、生きていけない。芝居と現実と、似て非なるものが、まったく異なるベクトルに向けてカニオを引っ張り合う。
 「今夜ね。それから永遠にあなたのものよ」
 舞台の上で、コロンビーナがアレッキーノに約束している。
 二重写しの状況が重なった。焦点が完璧に、合う。
 ありえない激しさで、コロンビーナに詰め寄るパリアッチョ。強張りながらも、芝居の流れの中に戻そうとするコロンビーナ。喝采する観客。「もうパリアッチョじゃない」。白塗りのカニオが叫ぶ。トニオが絶妙のタイミングでナイフを手渡す。刺されたネッダが情人の名を呼び、駆け寄った男にも凶刃が浴びせられる。
 刃を振るったのはカニオでも、そのきっかけのひとつになったのはネッダのあの台詞だった。あの一言さえなければ、と哀れに思いながらも、解せないものが残る。
 つまり、どうして同じ台詞を言ってしまったのか、ということだ。
 恋人との駆け落ちの約束なんて大事なもののはずで、他の誰にも教えたくないくらいのものだと思うんだけど、何故か彼女は同じ言葉を、道化芝居の舞台でつるっと口にしている。約束が本気でないのなら分かるけど、音楽を聴く限りでは、彼女は本気のようだ。
 オペラの台本だから、そこまで深く突っ込んじゃいけないのかもしれない。けれど、もし、無茶な見方が許されるなら、ひとつ、思いついたことがある。
 実は、あの舞台上の台詞、カニオの耳にしか聞こえていなかったんじゃなかろうか。惑乱していたカニオが、似たような台詞を、自分の都合の良いように捻じ曲げたって可能性は、ゼロだろうか。だって、普段の生活でそういうことって頻繁にある。刃傷沙汰にならないだけで。
 舞台は南イタリアのカラブリア地方。季節は夏。8月15日の午後から夜中までの半日間。身奇麗な人は一人も出てこない。誰も彼もが貧しく、毎日精一杯働いて、やっと生きるための糧が得られる。
「道化師」はそんな、生まれた時から下りのエスカレーターに乗せられたような人々が演じる命懸けの愛憎劇で、その中心付近で生きて、足掻いているのがネッダという人間だ。

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