「選ぶことは失うこと」
〜第1幕〜
名前 マドレーヌ Name Madeleine
出演作 カプリッチョ 作曲者 リヒャルト・シュトラウス
役柄 18世紀フランスの伯爵令嬢。未亡人で実家に戻っている。 性別 女性 声域 ソプラノ

 ああ、この人はどちらも選ばないんだ。
 冒頭の台詞が軽やかに、諦めたような調子で歌われた瞬間、直感した。
 時は1775年頃、場所はパリ近郊にある城のサロン。この城には、伯爵とその妹のマドレーヌが住んでいて、今日は音楽家と詩人と劇場支配人と女優とがこの城を訪れている。
 マドレーヌは若く美しい未亡人で、音楽家のフラマンと詩人のオリヴィエはどちらも彼女に恋をしている。そのことは、マドレーヌも周囲も気付いていて、だから伯爵とマドレーヌが二人だけになったとき、伯爵はこんなことを尋ねる。言葉と音楽のどちらを選ぶのか、と。いくつかの戯れるような応酬の後、マドレーヌの口から言葉がこぼれた。どちらでもないわ、選ぶことは失うことよ、と。その後も会話は流れていったが、私の心にはこの台詞がしばらく引っかかり続けた。
 どちらかを選べば、選ばなかったほうを失うことになる。そういう意味だと、最初は思った。
 でも、どちらも選ばなかった場合は両方を失うのではないだろうか。それくらいなら、どちらかでも手を出したほうがいいのではないだろうか。そこまで考えた時、閃くものがあった。
 もしかしたら、どちらも失くさないために選ばないのかもしれない。だって、そうすれば、どちらも手に入れずに済む。手に入れていないものは失くしようがない。だったら、最初から何もなかったことにしてしまえば、何も失わない。非常に狡い方法だけど、この人はもしや、それを狙っているのではないか。
 場面が進むにつれて、彼女の嫌なところが徐々に見えてきた。
 美しく優雅で、洗練された会話術を持ち、マナーは完璧、しっとりとした落ち着きもあり、芸術にも造詣が深い。これで生まれも育ちも貴族のお姫様なんだから、男性が好意を寄せないわけがないのだけど、この人、はぐらかすのが非常に上手くて、音楽家と詩人の真剣な問いかけもするりとかわしてしまう。話題を振っておいて、食いつかれると途端に逃げるって、どうなのよ、それ。翻弄されている作曲家と詩人が気の毒で仕方がない。
 真剣に返答を迫る音楽家から逃げ切れずに、マドレーヌは、明日の11時に図書室で返事をすると約束する。逃げ切ったはずの詩人からは、執事を経由した伝言を残される。オペラの結末をどうしたら良いかを伺うために、明日の11時に図書室でお待ちしています、と。
 ふたつの約束が重なり、マドレーヌは呆然とする。が、すぐにこんなことを言い出す。「これは運命だわ、あのソネット以来、二人は切り離せない」と。あのソネットとは、オリヴィエの詩にフラマンが作曲した歌曲のことである。聴いていた私はここでつるっとこけた。いや、切り離せるから。貴女がさくっと選びさえすれば。
 二人の人間が真剣に愛を捧げているのに、マドレーヌの中での問題は、どちらの人間を自分の相手として選ぶかではなく、音楽と言葉のどちらがより心を動かすかという、抽象的な問題にすりかわっている。「カプリッチョ」が言葉と音楽の関係をテーマにしたオペラだからっていうのはあるけれど、それにしても、人として結構酷い。このままだとこの人、いつか刺されるか断頭台に送られると思う。
 でも、彼女だって、自分の狡さを分かっているのだ。
 このオペラの最終場は、マドレーヌのモノローグだ。来客が去り、兄もパリに出かけ、一人になったマドレーヌは、夕食までのひと時、独白する。二人のうちどちらを、言葉と音楽のどちらを選ぶべきか。言葉と音楽はひとつに融けあい、引き裂くことはできない。そのどちらも自分は愛している。では、人間はどうだろう。自分はどちらを選ぶのだろう。マドレーヌは自問する。オーケストラが息を潜める。どこからも応えは返らない。自分の中からも、外からも。マドレーヌは絞り出すように叫ぶ。

 「愛されているのに、与えることができない。
  弱さが何か甘美なものとでも思っていたのね。
  愛と折り合うつもりでいた。
  それが今や、炎の中にあって逃げ出せなくなっている」
 彼女だって、分かっているのだ。自分の置かれた状況と自分の問題点を。ここで、彼女の信念のような言葉がまた飛び出す。
 「一方を選べば、一方を失う。何かを得ることは何かを失うこと」
 そう、彼女は失うことを極端に恐れている。どんな小さなものも失くしたくないと思っている。たとえ、そのことで大きな幸福を逃すとしても。
 基本的に彼女の行動は、得るためではなく、失くさないために行われる。何が彼女をこうも臆病にしたのかは分からない。年若い未亡人になった事情にあるのかもしれないし、生育環境にあるのかもしれないし、他の理由かもしれない。
 しかし、オペラを観ただけでわかることもある。マドレーヌにとっては多分、得るのはとても簡単なことなのだ。欲しいもののほとんどは望む前から与えられ、何が欲しいかを真剣に考える必要はなかった。おそらくは、重要な選択はいつも周囲がしてくれたのだろう。
 「どこか皮肉な目つきで私を見るのね。
  欲しいのは答えよ!
  そんな試すような眼差しではないの!」
 マドレーヌは自分を見つめて、答えを探す。その眼差しが冷たいことに、自分で気付いて苛立つ。知っている、分かっている。分かっては、いる。必要なのは、批評ではなく、行動だ。それでも動けず、マドレーヌは立ちすくむ。
 明日の11時にマドレーヌが何をするか、何をしないか、劇中では明かされない。
 だから、これは全くの想像でしかないのだけど、聡明で理性的で優柔不断なこの人は、どちらも選ばないのではないだろうか。選ぶことと失うことがイコールで結びつき、心の奥深くにはびこっている。そして、失うことになってもいいから、どちらかが欲しいという熱も感じられない。これでは選べない。
 冷えた生き物、見逃し三振の女、厄介で面倒な人。
 選ぶことがとことん苦手な彼女にとっては逆に、退路をふさがれてひとつしか選べない状況に置かれた方が、精神的には楽なのかもしれない。こんな性質でこの先の激動の時代を生き延びられるかというと、大いに疑問が残るけど。
 そう、これはフランス革命前の物語で、マドレーヌは、近く滅びる種族の洗練と美が結晶化したような存在と言うこともできる。そしてこの作品が初演された1942年のドイツにおいては、彼女はおそらく、古き善き時代の化身に限りなく近かったろう。その美点も欠点も、弱さも愚かさも丸ごとひっくるめて。

L:ルルへN:ネッダへ
肖像・目次へ表紙へ
inserted by FC2 system